上 孝浩
Takahiro Inoue

ギタリスト
Guitarist


Profile

 
  ★ ニュー・アルバム・リリース!

  "two needles and six wires"

 最近の活動状況は こちらからどうぞ (アルバムの試聴もできますぞぉ)
 http://www.myspace.com/sixwires  

 

京都生まれの京都育ち。1985年、バンド活動をはじめる。その後いくつかのバンドの結成、解散を繰り返して、95年、ベースのハマノ、ドラムスのマコト、と「Arkive(アーカイブ)」を結成。 おもに京都のライブハウス「RAG」「拾得」「磔磔(たくたく)」「Muse Hall」等で活動を続けていたが、'97年アーカイヴ解散後上京。

'98年アンゲルスに参加。芝居と音楽のコラボレーションを始める。

'00年にメロディカの藤沢祐子とともに、メランコリックとアヴァンギャルドな音を融合したアコースティック・インストゥルメンタルユニット「ぬけ穴」を結成、ライヴ活動を再開する。

'01年にドラムの月原誠を加え、"NEUK"と改名。NEUKとは "neutral"と "fake"をあわせた造語で、「どっちつかずのまがいもの」の意。ワールドミュージックからジャズ、テクノ、ロックなどさまざまな音楽を取り込み、いい意味で勘違いした解釈と、自由な発想でノイジーかつフリーフォームなスタイルの21世紀型パンクジャズバンドを率い、活動している。

<オセローマテリアル2002>
の舞台より

Nemoto のこめんと
タカヒロの音楽は、「映像的トリップミュージック」だという。
もう少し言葉を足してもらうと、「ワールドミュージックをベースに、FreeJazz、Rock、Psychedelic、の融合。音楽の三大要素[メロディー、リズム、ハーモニー]をぶっつぶして音楽を成り立たせること。」という答えが返ってきた。

「世間でキャーキャーもてはやされるタイプの音楽じゃない。カラオケでみんながうたえるような曲じゃない。単にガチャガチャがなり立てる音楽とも違う、頭っからノックアウトしてやろう、なんていうこけおどしもない。肩肘張ってるわけじゃないけど媚びてない...」

そういうのっていいな、って彼を見てると思う。

彼らが大事にしてる即興性....その場で一つの世界をつくりあげようと感覚を研ぎすます。

「研ぎすます」っていうとピリピリしているみたいだけど、感覚が開いていく、そんな集中の仕方。飲んで芝居の話、音楽の話をしていると、目指す物が似ている、そんな気になる。

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リオデジャネイロの観察者 のこめんと
 

私は抽象絵画を前にした時、絵の具のその筆跡から、描き手の一瞬の身体の動きが読みとれるように努める。作家の複雑で入り組んだ主題とのやりとりのヒントにするためだ。表現者ではない私は、観察者である在り方を確認しながら、抽象的な技法を取り入れた表現作品を前にしたとき、私の内部に持ち合わせる尺度、存在理由が私の内部で喚起されることを楽しんでいる。


抽象表現の創造行為を、観察するうえでの関心事のひとつに、親しい人物でもあるミュージシャン・井ノ上 孝浩がいる。


彼は、「アーカイブ」、「ニューク」、「ヌケアナ」と、インプロヴィゼーション主体の前衛音楽のギターリストであり、また金沢の劇団アンゲルス の舞台に、出演、曲の提供など、東ヨーロッパの公演では、その音楽性が高い評価を得た。


私は彼が、フレッド・フリスなどと肩を並べることのできる日本の数少ないギターリストだと思っている。常に彼は音楽に対し、真摯に向き合い傾倒に深い人物である。その演奏は、過ぎていく時間軸に、旋律、音色、ハーモニー、ビート、それらの要素を組み合わせる迫間のなかに、個人的な経験や感情を介入し、彼の背後にあるアプローチ、即ち創造行為を表現していく。


画家が筆をはしらせ、幾重にも重ねた絵の具の輪郭のように、彼の作り出すサウンドは、私自身の創造行為を刺激し、私自身を対峙させる時間を作り上げてくれる。彼が前衛的な表現手段で社会の窓口に存在するのならば、私は彼の表現手段とのやりとりで、自分自身と対峙しする機会を得ている。
インプロヴィゼーション主体の音楽に、最も特徴的な彼のサウンドは、簡素さと斬新さの中に、きわめて乾いた音質で、前衛的な要素の切り口を与えている。表現方法によっては、あえて潰したり、膜を張った音質にしたりする方法も試みるのだが、彼が大切にしているのは、ギター全体から振動している音鳴りであり、また演奏するモチベーションをも事細かにコントロールしている。そのストイックさが空気の振動となり、聴き手へと決して濁ることなく、彼の背後にある主題が、一瞬の動作として伝わってくるのである。


私はすべての聴き手にそれを呼び起こすことは必要ではあるが 、インプロヴィゼーション主体の前衛音楽には、後天的に学芸を琢磨している者、あるいは先天的な資質により思案深く聴くことのできる者、それらの観察者のみが、理解し得るものなのだと考える。


即ち前衛的な音楽の状態や変化を、ありのままに注意深く聴くことができる者が観察者であり、観察者であるべき者が、理知的でなければいけないと考えているが、すべての者がそうであれとは思っていない。簡潔に言えば、「自分に対峙して生きているのか」が重要であり、創造行為を気難しい言葉に述べなくとも良いのである。抽象表現行為の前に対峙し、何かを感じ ることが最重要なのだと考える。理知的に琢磨することは、あらゆる表現方法を理解するうえでの近道であるが、すべての聴き手がその姿勢で音楽と向き合うことは、困難であるだろし危険である。すべての聴き手に前衛的な手法、本質がわかり得たならば、果たして前衛音楽と提示できるものなのかも疑問である。通俗的な表現方法でさえも、すべての聴き手に対し理解させることはかなり難しく不可能であるのだから。
久しぶりに、孝浩と話す機会があった。


「インプロヴィゼーション主体の音楽を、すべての聴き手に伝えることはできるのか」と、彼と話してみた。


「通俗的な音楽に慣れ親しんでいる聴き手には、自分の音楽は、何を聴き、どう理解して良いものなのかという問い掛けの反応で終わってしまう。


そもそもインプロヴィゼーションは、自己満足な部分も見え隠れすることを認識しながらも、聴き手はパフォーマンスを成立させる一部であり、彼等の想像力をどれだけ喚起させることができるかによって、その善し悪しが決まる。


作品の中に、何か圧倒的なエネルギーや、精神性な呼び起こしを感じさせれば、聴き手の理解を超越し響くのではないのか」と、答え返してくれた。
私は彼の音楽を聴く多くを観察者として理解しているが、困惑と訝しげな視線をおくる聴き手の表情の前で、彼が演奏している現状をも知り得ている。偶発的に表現したインプロヴィゼーションの音楽要素、主題が現れるように、訝しげな表情の視線の中から、強く教示する視線をおくる観察者は、偶発的に現れるかも知れない。


ここでいくつかの観察者と案内者とのやりとりの在り方を、具体的に解くための示唆を、書き記しておかなければならないだろう。そして抽象表現の創造行為に、これらのことが、読み手に何かを担うことができるのなら、私が書き記したことも、無駄ではないということだろうか。
音楽、文学、演劇、視覚芸術を融合させた第一人者で、マルチな才能で活躍していたメレディス・モンク。彼女の「extended vocal technique」と呼ばれる独自の歌唱法は、その声の響きが観察者だけではなく、すべての聴き手の内部に、何かを喚起させることのできる圧倒的なエネルギーや、精神性が感じられ、すべての聴き手を観察者に代えることのできる表現方法を持つ歌声である。その声自体が前衛的な表現方法であり、聴き手を引き込んでし まう案内者としての役割をも担い、超越した魅力を放っている。彼女の作為的な表現は、前衛音楽における違和感を淘汰させたといえる。


80年代から90年代のニューヨークで、前衛的なアプローチをしてきたミュージシャンで、アート・リンゼイというギターリストがいる。彼のノイズギターと坂本龍一のピアノのセッションは、彼を観察者だけでなく、すべての聴き手に引き寄せたのは 坂本龍一のピアノであった。彼のピアノの楽曲が、前衛的なアプローチをするギターを、聴き手から観察者に代える案内者なっている。焦眉させるほどの耽美なノイズギターが、ピアノと対極な響きを放ち、非常に生きたセッションであった。


デビッド・シルビアンのアルバム「Blemish」に参加し、ボーカルの低く重たいブレスに巧く絡み合ったデレク・ベイリーのギター、そのサウンドは、デヴィッドの前衛的な楽曲とブレスに、素晴らしいアクセントとなって聴こえてくる。また、そのアルバムの主題となる案内者として存在している。これらのセッションは共に、コンポーザーのギターリストの起用法の巧さにより、コンポーザーのアプローチを引き出させ、案内者としてのギターサウンドも、極めて斬新に引き出た相乗的な効果を得たものである。


私は、アート・リンゼイのノイズギターは、キングクリムゾンのエドリアン・ブリューよりも、複雑にエフェクトを並べ、加工されたサウンドではないのではと推し測っていた。しかし、その予想は外れ、弛緩した12弦ギターの弦の張りの音鳴りに、分厚いディストーションを被せた奏法により、あの効果を出していた。そのトリックを孝浩に話して間もなく、弛緩した弦の張りを利用して、錚々とした三味線の鳴りと、カリンバのような共鳴感を 重ね合わせた音を、スタジオの空間に描いてみせた。そのことは、私をひどく驚かせたひとつである。メレディス・モンクの歌唱法と同じ、超越したサウンドであった。もう10年ほど前の話で、その曲は「知覚の扉の鍵の穴」という曲で聴くことができる。その当時の彼は、現在の前衛的な表現方法のベースをつくった時期でもあり、私は彼が進化していく様子をよく知る知人のなかのひとりだと自負している。


その後の彼の活動で、アンゲルスの芝居に参加し、海外での公演を経験した彼のアプローチの変化のひとつに、ギターを弾き過ぎずに、休符するタイミング、休符の長さ等の巧さが、曲全体の雰囲気、そこにある空間を具現させるかのように、印象深い空気感を与える音楽性を身に付けたのではないであろうか。その経験以来、孝浩とサウンド的にはよく似ているが、マーク・リボーの近隣に位置すミュージシャンの放つ空気感が、色濃く出てきたので はないかとも思う。


マーク・リボーは、トム・ウェイツ、ラウンジ・リザース、多方面でのセッション等で活躍しているギターリストである。私は過去に、ガムを噛みながら演奏し続けていたマーク・リボーのライブを観にいく機会があった。


その夜の彼の表現が凄いのは、すべての聴き手に注意深く聴かすことができていたからだ。
不安定な音程で弾くギターは、「もしや、巧く弾くことができないのではないのか」と思わせるスリリングさは、非常にユニークな印象を与えた。ジョン・ルーリーなどの見栄えの良いフロントマンがいたこと、ジャズ独特の洒落た音楽感などが案内者になり得たことが大きいのではあるが、表現行為との均衡が保たれた結果の産物であったに違いない。前衛的なアプローチをしながらも、極める少し手前で押し進めることを控えるそのさじ加減、非常にバランス感覚に優れた巧いギターリストである。


私は孝浩とマーク・リボーは、サウンド的には似ているが、真逆に位置していると考えている。その違いは、前衛的な方法を試みる表現の在り方の強弱にあり、前者は強弱が大きく、後者は強弱が小さい。また共通して言えるのは、どちらも表現者の本質を伝える聴き手とのやりとりの中で、彼等の音楽に立ち会うすべての聴き手に、いかに伝えるかという創造行為のバランスを保つ為に、彼等に限らずあらゆる前衛的な表現者は戦っているのではと考える。私は彼の創造行為に、そのさじ加減の強弱が、どのように変化していくのかを楽しみにしているし、さらに先に書き記したボーカルのブレスに巧く絡み合ったデレク・ベイリーのギターのように、案内者となるプレイを表現してくれるのか。あるいは、メルディス・モンクの歌唱法のようなすべての聴き手に驚愕する響きのサウンドを見つけ出すのか。また別のフィールドに立つ芸術家達とのコラボレーションにより、新たな表現方法を身につけるのか。今後の彼が、インプロビゼーション主体の表現方法を進めるうえで、新たな局面に位置しているのは紛れもないことだろう。