コラム
ルーマニア便り

第15回

モルドバ共和国再訪問記<ミク・デジュン…朝食編>
 
根本陽子

東京演劇アンサンブル・演劇集団アンゲルス/俳優部所属。「奇蹟の人」<アニー・サリバン>「十二夜」<ヴァイオラ>「オセロ」<デズデモーナ>ほか多数出演。「桜の森の満開の下」<生首>では踊り手としてイギリス、ブリヤート共和国、韓国、アメリカ公演に参加。「沖縄」<垣花シズ>ではイタリア、ベトナム、「かもめ」<ニーナ>で日本人として初めてモスクワ芸術座の舞台にたつ。
現在、文化庁の在外研修生として、ルーマニアに演劇留学中!
URL:http://fame.calen.ne.jp/~yoko/
E-mail:yokonemoto66@hotmail.com
モルドバ共和国の「ユジェーヌ・イオネスコ劇団」の主宰者であるペトロから、彼の主演映画のプレミアにご招待いただいた私は、前回の訪問から2週間ほど経ったところで再度首都キシニョフ入りした。4日目の朝、フロントでチェックアウトをしようとしていたときのこと……
ロシア人とのディスカッション……

「カードで支払うことはできますか?」
案の定「お代はいらない」との返事。招待なのでホテル代もペトロたちが面倒見てくれるということなのである。彼らの苦労を多少なりとも知っている私は、
「んー……困った」と唸っていたら、後ろから、
「ヨウコ! 無料だよ」と同じホテルの泊り客2人が声を掛けてくれた。
「でも……」
「いいんだ。僕たちグループ。問題ない」
声を掛けてくれた彼らはモスクワ在住の映画人たちで、やはり招待されており、プレミアのあとのレセプションで一緒に飲んだのであった。

「ミク・デジュン(朝食)食べた?」
「まだだけど、10時からペトロの稽古場へ行くから時間がないの」
「コーヒーくらい飲んで行きナヨ」
今度いつ会えるのか、もしくはもう2度と会うことのない人たちかもしれない。そう思って遅刻覚悟でお付き合いすることに……

話を始めて分かったのだけれど、彼らはモスクワアカデミーの映画学科を卒業しており、ペトロとは同窓生ということらしい。
「ヨウコ! 正直に話してくれ、映画はどうだったのか?」
どうやら、同じ外国人である私と作品についてのディスカッションを、どうしてもしておきたかったようなのである。

ひとりはモルドバ生まれでルーマニア語が少し話せる。でも、もしかしたら私のほうがうまいんでないかい?という程度。もうひとりは英語が少し話せる。しかしこちらも、知ってる単語数は私のほうが多いんでないかい?という感じ。2人のあいだはもちろんロシア語。

私はこの半年以上をこの<もどかしさが当たり前>のなかにいたのでさほど違和感は感じなかったのだけれど、彼らにとっては新鮮だったようで、「3人の人間のなかで4つの言葉が飛び交ってる」とある種の驚きを込めながら熱心に語りかける。

お互いがお互い、自分の言いたいことになるべく近いと思えるひとつの単語にたくさんの意味をこめて、慎重に口にする。それを聞いて、こめられているであろうそのたくさんの意味を必死に想像して次の単語を発する。
彼らが言う。「映画……言語」
私は考える。「舞台には舞台でなければ表現できないものがあるように、映画には映画独自のものがある。今回の作品にはそれが見出せなかった、と言いたいのじゃないかな……」
そして、私がルーマニア語で1つ2つの単語を返す。ひとりがそれを、彼女はこう言いたいのじゃないか、とたくさんのロシア語でもうひとりに伝える。それを聞いてもうひとりが英語の単語を1つ2つ返してくる。気がついたら1時間半が経過していた。

「頭で知ってたつもり」と「肌でわかること」

他者とのコミュニケーションというのは、そうとうなエネルギーも気力も要るし、いやぁ、マジでホントに疲れることなんだけど、「何かがしたい、何かを伝えたい、何かを知りたい」という創造的なエネルギーみたいなものが、自分のなかだけじゃなくて、そこにある空気に満ちている時は、ぎこちなさや、疲労や、言葉の壁を<気がついたら越えていた>という瞬間がある。
そのことを持続させるには、さらなる大きなエネルギーと忍耐と情熱が要るけれど。そしてそこには、当たり前に<誤解>もある。でも、そりゃぁ仕方ないことだし、別にいいじゃん……(^O^)

他国の言葉が喋れるというのはコミュニケーションのうえではとっても大事なことだけど、それ以上に重要なことがある。それが肌で分かってきたような気がする……。頭じゃ分かってたつもりだけれど、肌で分かるってこととはまったく違うことなんだなぁ……。

海外で生活していくなかで、もちろん思いもかけないようなことに遭遇する。でも、大半の出来事は日本にいるときにだって予想はできてた。これだけインターネットが普及していれば、ちょっと電話回線をつなぐだけで溢れるように情報が流れ込んでくる。テレビをつければ世界中のいろんな出来事がわかりやすく解説されて流れている。この7カ月間、頭のなかで想像してわかったつもりでいたことを、「あーやっぱりそうか」とひとつひとつ確認するかのようにして獲得してきたという思いがある。

ただ、<肌でわかる>……そのことは机上の空論では決して受けることのない、そう簡単には消えない類の衝撃を伴ってる。経験というものの迫力をいまさらながら思い知るのである。そのことは自分の奥底にあるものを、生き方といえるようなものすらも一瞬にして変えてしまう力をもってる。

どうして芝居に関わり続けてるんだろう……

「たとえば、絵画や彫刻や小説なんかはずっと存在し続けることができるけど……芝居って、観に来た人のなかには何か残るかもしれないけれど、その場だけのもので、芝居が終わったら消えてしまうものでしょ。そういうことに関わっているってどういう心境なんだろう、何を目指してるんだろう」と聞かれることがある。
たしかに……何でだろう。でも、今の私に答えられることがひとつだけ……ある。

大江健三郎の『燃え上がる緑の木』のなかでギー兄さんが、死を目前にしているカジ少年に語りかける。
「永遠と対抗しうるのは、じつは瞬間じゃないか……ほとんど永遠にちかいほど永い時に対してさ、限られた生命の私らが対抗しようとすれば、自分が深く経験した、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景を頼りにするほかないのじゃないか……そしてこれはね、実際に確かめてみることができることだよ、カジ」

今、ルーマニアで生活するなかで遭遇している<経験>と同じように、なまけものの私がぼんやりと送ってしまう日常のなかではなかなか獲得できない、自分にとって<一瞬よりはいくらか長く続く間>と思えるものを、せめて舞台の上で創り出したいと思っている……からなの……である。
モルドバ共和国再訪問記……完結でござる。


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モスクワからの映画人たち。ミク・デジュン(朝食)のとき…


 
広場でモルドバの民族楽器を作って売っているおじさん(左)
 



 
2つの縦笛が並んでくっついていて、同時に吹くと3度の和音になるように調整されてるものをひとつ買う。そのときセッションして遊んでいて、ふと気がついたら周りはすごい人だかり。おかげでそのあとにもうひと騒動……そのうち機会があったら書くことにいたします……(−−!)