コラム
ルーマニア便り

第18回

アンゲルス in ヨーロッパ
<ブカレスト公演>!の巻
 
根本陽子

東京演劇アンサンブル・演劇集団アンゲルス/俳優部所属。「奇蹟の人」<アニー・サリバン>「十二夜」<ヴァイオラ>「オセロ」<デズデモーナ>ほか多数出演。「桜の森の満開の下」<生首>では踊り手としてイギリス、ブリヤート共和国、韓国、アメリカ公演に参加。「沖縄」<垣花シズ>ではイタリア、ベトナム、「かもめ」<ニーナ>で日本人として初めてモスクワ芸術座の舞台にたつ。
現在、文化庁の在外研修生として、ルーマニアに演劇留学中!
URL:http://fame.calen.ne.jp/~yoko/
E-mail:yokonemoto66@hotmail.com
 
自分のなかで何かの“物足りなさ”が……

私のブカレストでの研修先であるブランドラ劇場での公演は手打ち公演。作品はシェークスピアの「オセロー」をもとにした「オセローマテリアル」。シビウ(ルーマニア)、キシニョフ(モルドバ共和国)と、2カ所での演劇フェスティバル参加中に私が稽古をして、ここではデズデモーナ(オセローの奥さんで、オセローの嫉妬から絞め殺される)をやることになっていた。が、しかーし、そんな時間が取れるはずはなかった。

台本を手にしたのはアンゲルスのメンバーがルーマニア入りする前日。おまけに、現地にいたという何となくの責任感(が本当にあるかどうかは別として)からか、毎夜、精神、肉体ともにぐったり……台本を読む時間も、やっぱりあるはずがなかった……。

6月2日。キシニョフでの公演を終えブカレストに戻り、夜中にいくつかのセリフをルーマニア語に直す。翌日ホテルの1室で数人集まって1時間半ほどの読み稽古。
演出家:「明日までにセリフ入れとけよぉ」
……絞め殺したろか、という感じである……
6月6、7日の2ステージ。客との距離も間近。空間自体の難しさもあって、晒されるという感覚が一番強い。いろんな意味でシビアなステージになるだろうということが予想できた公演。

私は、俳優としての演技術を学ぶためにこの国にやってきたわけじゃなかった。だから……お客さんから、仲間から、自分自身から、この7カ月間の経験を通して多少なりとも<お前はひとりの人間として成長してるのか、どうなんだ?>のただ1点だけを、見られる……という意識があった。作品の根っこの部分に関する理解はしているつもりでいたから、3日間の稽古ということも、私にとっての問題とは別のところにあった……。

舞台の上で、不思議と体がこわばるような緊張感はなく、ただただ目に映る空間はひんやりとしていて、その温度を脳髄だけが知覚する……そんな奇妙な感覚に襲われながら、自分のなかで何かの“物足りなさ”が絶えずつきまとい、「何でだ……」と問い続けていた。

“本物”はどこにあるんだろう……

今回の作品を創るうえでの大きな動機……黒きもの。
<他者>と表面的な付き合いをするだけだったら邪魔なだけでしかないそんな、醜く、汚いもの……を解放してみたいというような黒い欲望。

本気で<他者>と関わろうとするときには、穏やかでやさしいものだけじゃぁ決して済まない。きっと黒きものが自分のなかからも相手からも噴き出してしまう。今まではにこやかに、ある種心地よい穏やかさで済んでいた関係を一瞬で失ってしまうかもしれない。その怖さから、普段の日常生活ではそれをひた隠して生きている。その先で、本物の関係が生まれることがあるかもしれないのに、一時の平穏に身を委ねてしまう。

そのことのむなしさを少しずつ誤魔化しながら過ごしてしまっていることを、自分自身で知っている……気づいているから、
「だからこそ、日常生活で希薄になってしまうホントの意味での本気の他者とのコミュニケーションを、せめて舞台の上では創り出してみたい。その迫力の実感がほしいからこんな仕事をしてるんじゃないか」
そう言って今まで自分を納得させてきた。

でも、それは違う……<せめて舞台の上でだけ>なんていうのが、結局は、誤魔化しの誤魔化しでしかないということを、はっきり自覚してしまった……舞台の上で私が相対しているのは、デズデモーナという役を担った私自身であり、それぞれの役を担った俳優たち自身そのものなのだ。

これまで<どうしたら“本物”を手にすることができるだろうか>と、あがきながら芝居を続けてきた……と思う。
キシニョフで、「俳優たちには悪いけど、芝居は世界で通用する」という率直な声も聞いた。
技術的なことだけの意見だったら、アカデミックなものを否定し続けてきた私たちだから「芝居がうまいだけがいいわけじゃない」と、どこ吹く風というところも、ある。でも、今回の旅の間中、「どういうのを本物の役者っていうんだ……」ということを強く意識させられる言葉となった。

俳優自身の生き方が問われてる……“自立”

今の時代の流れのなかにありながら、状況にのまれることなく“もうひとつのもの”を創り出そうと思うとき、芝居の方向性?だけが、変革を迫られているわけじゃない。俳優たちそのものにも突きつけられてる、そんな気がしてならない。

<舞台の上でだけ輝ければ、芝居がうまけりゃそれでいい>というのでは、これからはもうだめだ。役を与えられてそれをこなし、スケジュールが決められてそれをこなし……ということではなく、判断を他人に預けずに、“もうひとつのもの”に向かって、自ら現状を切り開いていく覚悟をもった“自立”したものたち……そんな<情熱を実現する>ための人間としての生き方が、本物の役者を造っていくんだ、というような……そんな気がする。

「こいつは本物だ」そう思える相手と出会って、「ともに何かを創り出したい」そう思ったとき、<せめて舞台の上でだけ>なんて甘っちょろいことを言ってはいられない、ということなのだ。私というまるまる1個の人間が、相手の目から晒されている……。

「潔く堂々と晒されよう」と心のなかでつぶやきながら、私はシビウ入りした。シビウ、キシニョフ、ブカレストとそれぞれの地で、いろんな人たちと交流するなかで、スタイルとしてもすべての場所でまったく違った芝居を創りながら、晒される、ということの意味がわかったような気がする。
評価を他人に預けることではなく、自分たちの弱さ、幼さを自分たち自身が感じ取ってしまう、ということでもあった。そして、そこから抜け出すために、私たち自身にこれから何を、どう仕掛けていかなくちゃいけないのか……ということを突きつけられる、ということでもあった。
<アンゲルス in ヨーロッパ……完>

[次のページへ]
  
ブランドラ劇場は2つの劇場を持っている。私たちが上演したのはこちら。<サラ・トーマ・カラジウ>という名前のブラックボックスタイプの劇場
 
「オセローマテリアル」舞台稽古写真。幕開きは、ギタリスト<井ノ上孝浩>のライブ演奏。彼は芝居のあいだ中、ずっと弾き続けてる