コラム
ルーマニア便り

第25回

母国語…日本語…役者の言葉…
 
根本陽子

東京演劇アンサンブル・演劇集団アンゲルス/俳優部所属。「奇蹟の人」<アニー・サリバン>「十二夜」<ヴァイオラ>「オセロ」<デズデモーナ>ほか多数出演。「桜の森の満開の下」<生首>では踊り手としてイギリス、ブリヤート共和国、韓国、アメリカ公演に参加。「沖縄」<垣花シズ>ではイタリア、ベトナム、「かもめ」<ニーナ>で日本人として初めてモスクワ芸術座の舞台にたつ。
現在、文化庁の在外研修生として、ルーマニアに演劇留学中!
URL:http://fame.calen.ne.jp/~yoko/
E-mail:yokonemoto66@hotmail.com
 
役者にとっての母国語

俳優は言葉<台詞>に依存する比重がかなり大きい、と思っている。技術的に「どう感情を乗せて喋ろうか」ということではなくて、言葉を口にすることによって自分の中に、何かが流れる。そのことに寄って立つ部分が大きい気がするのだ。

ルーマニアの隣の国、モルドバ共和国の女優さんで、今は日本で暮らしている人がいる。ブカレストの私の部屋で、里帰りしていた彼女と会った。11月に東京でチェーホフの「かもめ」を日本語を交えて上演することになっているのだそうで、私がいくつかの台詞を喋り録音した。日本では、ルーマニア語はかなりマニアック?な分野である。日本に来てからは、英語での芝居に参加していることが多いようだ。

……外国語で芝居をするってこと、役者としてどう思ってるの?
「そりゃぁやっぱりルーマニア語で芝居がしたい。だって、私が生まれ育った言葉だもの」

私も今春、ブカレストでの上演をしたときにいくつかの台詞をルーマニア語で喋った。ルーマニア語を交えて喋るということは、私にとっては、「はじめに言葉ありき」で中身は後から付いて来るよ、という甘えを拒否するやり方だったし、ルーマニア語の台詞を喋ることによって、心の中と思考が一瞬分断される。でもやはり、言葉<台詞>は身体にぶら〜んとくっついてくる。もどかしさと一緒に…。そんな面白い発見だった。しかしそのことはあくまでその芝居を上演するうえでのマテリアル<素材>として、の面白さであり、ずうっと母国語以外の言葉で芝居をし続けることはやっぱりきついと思うな……。

私にとってのもうひとつの創造シーン…「書く」

演劇フェスティバルに参加したあと、ナショナルシアターへの出演依頼というのがあったのだけれど、主演の女優さんの緊急入院ということがあって、上演が延期になってしまった。秋シーズンの上演は私の帰国に間に合わず……というわけで、私はこの1年間、舞台に立つということをほとんどせずに、ひたすら「ルーマニアで暮らす」ということをやってみてた。だから、そのなかで何かを創る、自分の創造シーンを創る、ということをどこかで見つけ出さなくちゃならなかった。これは内なる欲求であり情熱である…と思いたい…ぞ。

私にとって、芝居をするということは、自分の生き方を探そうとする行為だ。そして気がついたら、書くことで、自分の生き方を探し始めていた。それと同時に、書くことが私にとって「創る」という行為になってた。意識してそれを始めたわけじゃなかったけれど。

帰国間際になって、雑誌のインタビュー記事の依頼がきた。考えてみたら、私はこう思う、こう感じた……等々を日本へ発信し続けることはやってきたけれど、ルーマニアの人たちに向けては何ひとつやっていない。私を受け入れてくれた「ブランドラ劇場」の人たちや、お世話になった友人たちに対して、赤ん坊並の語学力で「うゎぁ〜」と吼えてる日本のアクトレスYokoがここで何をしたのか、を少しでも伝えようという努力はしなくちゃいけない、そう思って引き受けた。

「日本語で渡してくれればいい。誰か知り合いに翻訳をお願いするから」そう言われていたのだけれど、私は「お師匠っ!」と呼んでいるルーマニア語堪能の日本人の友人にお願いした。できるかぎり翻訳しやすいように、ニュアンスに逃げることなく中身を書こうとは思っても、私にはどうしてもできない部分がある。こだわってしまう日本語のニュアンスでしか言えない部分。それをどう翻訳するのかの判断は、普段から私が書くものに目を通し、何をどう考え、感じているのかを理解してくれている彼にしかゆだねられない。

即日、翻訳原稿を送り返してくれたけれど、たとえば私が「日本の現代演劇の状況が硬直しているように私には思えたし……云々」と書いたことについて、彼からのメールにはこうあった。
「翻訳で悩むのは主語と述語の関係。たとえば『状況』という言葉は『硬直』しない。『考え』は『硬直』するけど。判る? 直訳は可能なんだけど…。だから、硬直という単語が意味を持つなら、主語を変えるしかない」

論理を重んじる欧州言語では単語の選択が難しい。日本語はひじょうに柔軟な言葉で、あまり論理性を問われないから雰囲気で意味が通じる。日本人の論理もそうしたところがある。しかし、現実は複雑で重層的。日本語のほうが的確であったりする。言葉は人間が勝手に意味を与えて作り出したもの。生きた物、動く物、変化する物を表現するのが苦手。現実、事実とは別ものだから。

やっぱり日本語にこだわっちゃう。語学力ゼロ人間の言い訳かっ!!

ほかの日本語で言い換えなくちゃならないとき、それ以外の言葉ではどうしてもしっくりこないのだ、と確信するときもあれば、自分自身が中身を持ってもいないのに、その言葉を使うことで喋った気になっているだけだ、と気がつくときもたくさんある。
物事をどう見ているのかを自分の中ではっきりさせようとするなかで、どの言葉を選ぶか、この1年間で慎重になったなぁと感じてる。日本語で生まれて育って日本語的思考でものを考える私には、その時の感じ!にぴったりくる微妙なニュアンスは、母国語でしか言葉を選べない。それは舞台に立つにしろ、ものを書くにしろ同じことだ。嫌でも日本語にこだわってしまう悲しい性なのかな…?

「大至急!」の依頼で徹夜して翻訳してくれたお師匠に感謝しつつ、原稿を渡しに行き、そして私自身も慌しく荷造り。外国人にとってはかなり恐ろしい場所であるルーマニアの郵便局へと荷物を抱えてえっちらおっちら…。

次回はいよいよ機上の人!でござる。ところでこの「えっちらおっちらっ」てどう訳すんだろ……。


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ルーマニア北部にある町…スチャバ。これは井戸。ブカレストを一歩離れると風景は一変します。おまけに非常〜にのんびりしてます…この町の道路は馬フンだらけでした…(^-^)
 
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