コラム
ルーマニア便り

第31回

「ユジェーヌ・イオネスコ劇場」日本公演 裏方騒動記<エピローグ>
 
根本陽子

東京演劇アンサンブル・演劇集団アンゲルス/俳優部所属。「奇蹟の人」<アニー・サリバン>「十二夜」<ヴァイオラ>「オセロ」<デズデモーナ>ほか多数出演。「桜の森の満開の下」<生首>では踊り手としてイギリス、ブリヤート共和国、韓国、アメリカ公演に参加。「沖縄」<垣花シズ>ではイタリア、ベトナム、「かもめ」<ニーナ>で日本人として初めてモスクワ芸術座の舞台にたつ。
文化庁在外研修生として、1年間ルーマニアへ演劇留学。ただいま帰国…ほやほや…
URL:http://fame.calen.ne.jp/~yoko/
E-mail:yokonemoto66@hotmail.com
 
モルドバ共和国のイオネスコ劇場来日公演のようすを“演劇フェスティバル”って何なのかなぁ…ということで4回にわたって書いたけど、芝居の中身のことについてはなんにも触れていない。
で、いったい彼らの芝居はどうだったんだろう、てことで…。

難解な不条理劇…「ゴドーを待ちながら」

彼らは2本の芝居サミュエル・ベケット作の「ゴドーを待ちながら」とユジェーヌ・イオネスコ作「瀕死の王様」を持ってきた。サミュエル・ベケット、ユジェーヌ・イオネスコは不条理劇を代表する2大作家である。“不条理劇”とはなんぞや…ということを書かなくちゃいけないのだろうなぁ…。
<物語性や起承転結を通り一遍には解説できない作品>
んー、かなり乱暴かな…もちろん辞書にもそれなりの意味は書いてあるのだけれど…。

6年前、彼らが初来日し東京演劇アンサンブルのブレヒトの芝居小屋で「ゴドーを待ちながら」を上演した際のビデオを、今回の字幕を作るにあたって何度も見た。笑った。そしてただ笑えるだけではない中身を感じた。セリフは忠実に喋っているのに、いろんな要素が重層的に挿入されている豊かさがある。

日本でもこの本は有名で、そして非常に難解な作品だと言われている。だからいろんな形で上演されているけれど、私は面白かったと思ったことがない。今回の彼らの芝居を観た日本のベケット研究家から「30年来の疑問が解けた」という声もあったそうで…何で彼らの芝居を観て難解なはずのベケットがわかったような気がしてしまうのだろ。

“あらすじ”では中身は説明できないよな…

<「ゴドー」のあらすじ??>……1本の木の下で、どこの誰なのか、いったい本当にそんなモノが存在するのかもよくわからん“ゴドー”をひたすら待ち続ける男2人。
「もう行こう」
「いや待とうよ」
と言い合いながら時が過ぎてゆく。日が暮れるころに少年がやってきて「ゴドーさんは来ません」と告げて去っていく。そして次の日…同じ場所なのか、同じ人物たちなのかさえあやふやになっていくなかで、やはりゴドーを待ち続ける…って感じかな。

“道化”の格好をした彼らの「ゴドー」では、たとえば、男2人が争いを始めるシーンで相撲を取り始める。そして「仲直りしよう」といって抱き合う2人は片やフンドシ一丁のような格好で、片や上半身裸…そのうちヘンな気持ちになってきたようで、なぜか男と女のじゃれあいを演じ始める…ってもちろん台本にはそんなこと書いてない。
舞台の一番前に座り込んだまま客席を巻き込んでかなりの長時間じゃれあってる。セリフは本の通りだけど、入れ込む要素は柔軟だ。どんなものをどうやってどのシーンに取り込むか、はそう簡単にできることじゃない。
そしてさんざんじゃれあったあとにポツリと、
「…もういい。疲れたよ」
「せめて深呼吸をしよう」
「もう呼吸もしたくない」
とつぶやく。その瞬間「ゴドーを待つ」という行為をしながら、<おちゃらけたり、客席と絡んでみたりあれこれやっては見るけれど……>という、理屈ではない、実際の彼らそのものの有り様が、ザッとその空間に浮かび上がってくる。

私は聞き取れないくらいのつぶやきに合わせて字幕を出さなくちゃいかんので、彼らの口元を見つめながら、もう必死っ…なんだけど、そのセリフの重さにふっと目頭が熱くなっちゃったりするのである。

学者さんの解説じゃ解決しない“謎”

学者さんたちはベケットの言葉が書かれたその当時の時代背景や社会的な意味を一般的にわかりやすく解説できるような形に解明したがる。芸術=難解、と思い込まれてるからかしらんけれども、哲学的にもさまざまに解釈され、ますます“高尚な芸術作品”へ押し上げられてしまう。
私なんか、翻訳された本を読んだら注釈のあまりの多さに余計わけがわからなくなっちゃうんだけど…。

セリフの係り結びだけでは意味不明な言葉の流れを、<解説して見せる>んじゃなくて、モルドバ共和国という国に生まれて、そこで生きようとしている彼ら自身の“いま”を埋め込むようにひとつ一つを具体的にしていく。
文字だったものが彼らの言葉として生き生きしたモノになる。
<作品のなかと“いま”>・・時空を行ったり来たりしながらやられていく彼らの「ゴドー」は、不条理=難解=高尚=芸術……みたいな図式を吹き飛ばしてしまうのじゃないかな。

彼らの芝居が揺さぶった私たちのなかにある“何か”…

今回の来日公演の感想には「ものすごく面白かった」という人も多かったけど、嫌悪感を感じる人もいた。潜在的にそう思った人も結構いるんじゃないかな…それもわかる気がする。
イタリアの古典的な道化芸も下地にある彼らのギャグは、コミュニケーションの希薄さが叫ばれている日本人にはつらくなるのじゃないかしら。

芝居のなかで、おなかが減っていて人参1本しかない彼らは、それを奪い合いながらも道化の“遊び”に変えてしまう。クチャクチャと噛んだ人参の破片を口で受け合っていた2人は、それを客席にまで要求する。そして、しつこすぎるくらい絡んでくる。

<それ以上関わったらめんどくさいし、エネルギーを使うし、ストレスも溜まるよ>と他者とのコミュニケーションを「もうやだっ」という寸前でそらしちゃって、何となく表向き平穏に過ごすことで自分を安全地帯に置いておこうとする。…唾液、汗、足・口の匂い…“生々しい動物的なもの”がどんどん薄れていく、清潔に合理的に整理され近代化されていく日本。

そのなかにある私たちが、そういったものに対して拒否反応を示すのは当り前なのかもしれない…。単なる趣味、の問題で面白い、つまらないをいうことは簡単だけれど、現代の問題として浮かび上がってきたものとも言えるのかな……。

私たちが、たとえば「ゴドー」をやるとして…いくら彼らの芝居の方向性に多分の共感を示しているとしても、同じことはやらないだろうし、やったとしてもやはり嘘っぽくなるんだろう。そういった日本のなかで生きている私たちは、明らかに彼らとは違った“いま”を抱えているのだもの。

あれっ…2作品分書こうと思ったのに書き切れなかった。
…ということで次回は続きか???…


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モルドバ共和国の映画会社。ここの社長さんは元イオネスコ劇場の俳優さん。共産主義が崩壊した後、会社の建て直しを任されたんだそうで…就任した当初、ここを訪れて呆然としたそうな…なぜかというと、もちろん恐ろしくさびれてしまっていたからであろう。ここにある機材のほとんどが旧式のソ連製。「骨董的価値はあるよ」と現場のおじいちゃまたちは笑ってた…
 
きっと共産主義時代からずっといたんだろうなぁ…職人!って感じのおじいちゃま、おばあちゃまがたくさん残ってる。でも、たいして仕事はないと思う。機能してない部屋もたくさんある。共産主義の名残りかな…簡単にリストラするわけにはいかないんじゃないだろうか。でも、今はすこ〜しずつ持ち直しているのだ
 
カメラ…覗かせて貰いました。とにかく、ごつくて、お・おもいっ