コラム
役者という生き方〜貧乏ものともせず

第17回

アンゲルス in ウクライナ
〜 Golden Lion 国際演劇祭(2)
 
根本陽子/女優
「奇蹟の人」「十二夜」「オセロー」ほか多数出演。「桜の森の満開の下」では踊り手として、イギリス・ブリヤート共和国・韓国・アメリカ公演に参加。「沖縄」では、イタリア・ベトナム。「かもめ」ではニーナ役で日本人として初めてモスクワ芸術座の舞台にたつ。
2001年、文化庁芸術家在外派遣研修生として1年間のルーマニア滞在を終え帰国。貧乏をものともせず、「集団に依存しない真のクリエイターの姿」を模索しながら活動中。
URL:http://fame.calen.ne.jp/~yoko/
E-mail:yokonemoto66@hotmail.com
 
金沢に拠点をおく劇団アンゲルスが、ウクライナ共和国第2の都市・リボブで開催される<Golden Lion 国際演劇祭>に日本の現代演劇の劇団として初めて公式招待を受けた。上演は10月初旬。以下、稽古期間中のお話。

ともかく稽古はスタートする

1度は不参加を表明したものの、かたくななように見えた決意をひらっとひるがえし、私が金沢入りしたのが9月15日。いつもだったら演出家の自宅の2階が私の部屋になり、東京からのほかのメンバーのために、隣家のおばあちゃまのおうちが合宿所へと変わる。今回は諸処の事情からシンガーソングライター<イージー・TAKUさん>のおうちにお世話になることになった。

これは余談。まだオウム真理教のニュースがテレビで頻繁に流されていたころ、我々が泊り込んでいたおばあちゃまのおうちは、事情を知らないご近所の方々のあいだで「どこかの新興宗教の集団が……」と噂されてたらしい。はは……(^.^!)
でも、メンバーが合宿生活するのは資金ゼロから始めざるを得ない集団の工夫なのだけれど、ね。

仕事を放棄した私がいる…

慌しく、それでいていつもよりゆるく、時間が過ぎていく。何でかはわかってた。私が“舞台に立つ”以外の作業を放棄したからだ。

……聖徳太子以上の才能だな……と、私が半ばあきれてるアンゲルスの演出家は、寝る時間もないようなペースでいくつもの仕事を同時にこなす。どっかり演出家の椅子に座っていられるようなタイプではないのである。別に彼だって余裕しゃくしゃくで仕事をこなしているわけじゃないのはよく知ってる。

本人含めて、別に大した話とは思ってないんだけど、彼はガンの手術でかなりの数の内臓を取っちゃってるから、通常?の人間より体力的にも相当きついはずである。倒れそうになってるくせにつらいとも言えず、いまの現実社会のなかで自分の創造行為を果たそうとする姿勢は、身近にいる人間には、……ホントに命すり減らしてやってるよ……っていう迫力が……ある。
そばにいるもんだから、いつもだったら私も煽られるようにパンフレットやポスターつくり、HPの更新等々の作業でバタバタしてるんだけれど。

自分の「役」にだけ集中できたらいいのにな……といつも思ってたけど、そういかないのは半分は私の性分か……っというのと、そうせざるを得ない現実の状況が当たり前のものとしていつも周りにあるわけで。走りながら考えるよりない流れのなかでしか、見えないものがある。そして、そういう状況からでしか生まれてこないのかも知れない、と思えるこれまでの作品創りだった、という実感だってもってる。

だけれど今回ばかりは、すべてのことを放棄しようとした。“うしろめたさ”を背後にもちながらもそういう態度しか取れない、今の自分自身にあっぷあっぷしてる私がいた。

なんであっぷあっぷなんだ、あたし…

虚飾を剥ぎ取ってできるだけ正直に、感じたことを素直に書きたい、そうは思っててもなかなか難しい……。これまでも私の身に起こったことを書き続けてきた。私以外の人のことを書くにしろ、プライベートなことも多分に含まれているから、書いてはいけないときもあるし、今の私では中途半端になりそうだな、そう感じることもある。
そして、私自身のことに関しても、決して表に出してはいけないような事柄だってあるわけで……。

でも、そこを書かないと、自分のなかの本質に迫れない……そのジレンマと、違うアプローチでどうにかして書けないものかと、いらいらしている私がいる……。
なんで、こんなにしんどい思いをしながら書かなくちゃいけないのかな。どうしたってややこしくなると分かっている事柄は書かない、それで済むはずなのに、なぁ。誰が気づくわけでもなし……。

でも私はこれまで、芝居をすることも書くことも、生き方を探るためだと言い続けて書き続けて――つまりは自分で選び取ってきたことだけど――そしてそのかたわらで、演出家であり、長い間の信頼すべき理解者であり、仲間である彼に、創造的にも生き方という意味においても(というか今となっては同じような意味合いだけど)おんぶに抱っこだった……けど、いまだにもってその状況はなんら変わってない自分自身に対して“うしろめたさ”を感じてて、そして今ごろようやっと、ジタバタしてるのか、な……。
そして、それは私だけの問題ではないのだろう。きっと……。
そして、結果的には、そんなことすべてをひっくるめた私自身がそのまま舞台の上にじっと居続けることになる……。

今回、私の役は演出家がママチ遺跡からとった名前で“ママチ”。原作にはない。芝居のドあたまに出てきて、舞台に打ち付けてある鉄鎖で自らの足をつなぐ。幕間休憩なしの芝居の中盤で鎖をはずすまで、舞台に居続ける――おそらく“この時代のなかで、自らの創造行為を果たそうとする者が、ある生き方を自ら選び取っていこうとする姿”として……。もちろん私自身はそんなかっこいいものにはなれずに、ジタバタというわけなのだけど。

ジェンダー

今回の作品<オセローマテリアル2002>のなかでは、ある意味で現代を作り上げたと言える“男社会”のなかで、活き活きと生きてきたはずのオセローは、そのことの“うしろめたさ”を背負う。時代のなかの“女性性”に対してもけっこう誠実に理解できるような聡明な男でありながらも、やはりデズデモーナを殺してしまい、そして、時代のなかに埋もれてしまいそうになるものを掘り起こそうとしたはずのイアーゴーも、最後には女たちに撲殺される。
善人がいて悪人がいる、というわかりやすい図式では説明のつかない“もうひとつのもの”――“ジェンダー(社会的・文化的に作られた性差)”の問題を意識的にやろうとしてた。

簡単に解決なんてできない問題山積みのなかでの<私たちの今>を抱えての作品創りを、今の私が文章にしようとすると、こんな感じ……なのです………続く。


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今回の舞台では太極拳の動きが使われる。デズデモーナ役の八木澤れいな(黒い服)の指導でレッスン中。で、右端がオセロー役の長畑豊(白い服)
 
舞台では衣装逆転で白い衣装がデズデモーナ。黒人将軍オセローはやっぱり黒
 
“地の者”たちが持っている白い紙の板には、若手映画監督(嬉野智裕)が稽古に参加しながら編集した映像がしばしば映し出される