ウクライナから始まったプチ放浪は、ハンガリー→クロアチア→イタリアとめぐって、最終地はオーストリア・ウィーン。ここには東京で同じ劇団だった女優さんが住んでいる。
92年に東京演劇アンサンブルとドイツ文化センターとの共同企画でヨーゼフ・サイラーというオーストリア人演出家を招いた。彼女は彼との共同作業に何かを感じたのだろう。その後、単身こちらに移り住んで女優という仕事を続けている。
生活費も当然経費に含まれますっ…ウィーン
その彼女からウィーンの演劇事情を聞いた。ここでは「助成金がもらえなければ芝居の上演はできない(やらない…といったほうがいいのか)」のだそうだ。
たとえば、あるプロジェクトを企画して申請する。そして助成がおりれば、そのプロジェクトに関わる人たちは、稽古含めたその期間中は給料がもらえるので生きていける、ということらしい。今、彼女が関わっているものは3年間のプロジェクトで、その期間は毎月給料が支払われる。
私の認識では、助成金は必要経費(舞台装置やら衣装、照明やら)に対する補助であって、俳優たちや演出家の生活費がそれに含まれるという感覚は、ない。
……そうだよなぁ…それに携わる人間が一番大事だよ。
でも日本じゃ、その人間たちの生活を支えるっていうのは一番後回しだわな(--!)そんな我々からみると、
……おーっさすが華やかなウィーンだ。
と金銭面の意味だけではない文化・芸術面の豊かさを感じたりもする。
でももちろん、申請した人たち全員がもらえるわけじゃないから、もう何年も芝居を打てずにくすぶってる、ってぇ人もいるわけで……。前衛・実験的と言われるものに対する理解の幅は日本よりも広いと思う。けど、審査する人間の認めるものだけがいいものだ、とも、予算をいつもたくさん取っていく人間の創るものが必ずしもいいものだ、とも言えない。そのことに歯噛みしている人たちはウィーンのなかにも当然いる。
なぜ芝居が打てないのだ?
だったら……「何年も芝居が打てない」という状況が、日本の芝居屋としては不思議で仕方ない。
「助成金をもらわなくったって、チケット収入があるわけだし、まったくの資金ゼロっていうわけじゃない。芝居を創ることも、自分たちで上演にこぎつけることも、やろうと思えばできるじゃない? それで評価が高ければ次につなげられるじゃない」
「ここは違うんだよ。助成金をもらわずに芝居を打つということ自体、アマチュアとみなされて評価の対象にはならない」
「その風潮を変えようというふうにはならないわけ?」
「んー無理だね。それに俳優たちもロハでは絶対集まってこないよ」
ここでいうロハをわかりやすーく言うと、たとえば、「この演出家との仕事は面白い」と思っていても、その人が口下手で(^^!)予算を獲得できなかったら俳優たちはそっぽを向く、ってことである。なんとも……いやはや。
どちらが良いとは単純には言えない
日本にも公的なもの、企業のもの、などの助成金という制度は、演劇先進国と言われるような国々と比べると金額的には少ないだろうけど、ある。でもそれを、もらえるかもらえないかが、プロかアマチュアかを決めるものじゃないし、日本の観客も助成金を絶対基準にして評価するわけでもない。
それに……たとえ予算がなくてギャラが支払えないとしても、「それ以上に、自分にとって創造的に意味のある仕事だ」と思えば人が集まってくる、という土壌が日本にはある、とも言えるしなぁ。。。国民性かしらん?
「文化芸術の華やかなりしウィーン」だけど、システムに縛られて創造行為が果たされず、評価にさらされずにいることが良いわけがない。実験的な要素が強ければなおのこと、である。その問題意識はウィーンの演劇人たちのなかにも、やっぱりあるみたい。
クリエーターたちを助けるための“お金”や“システム”が、逆に創造行為を阻むものにもなる。そのことは、ウィーンでも日本でもおんなじだな。
演劇は自分たちが生きてる現実社会と無関係ではいられない、と思ってる。それぞれの国の演劇事情のなかから、あの手この手ですき間をかいくぐって(^^!)どんなものを生み出そうとするのか、がオリジナリティーとも言えるか、な。
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